総論

平成九年は行政改革論議に明け暮れた。そして誰もが、医療改革に挑戦した年でもあった。しかし、八月七日に、発表された厚生省の「二十一世紀の医療保険制度」改革案に、すべての大新聞は失望を隠さなかった。すべてのマスメディアは「医療保険制度の抜本改革は、医療を受ける側の応分の負担と、提供する側の改革がセットで行われるべきであるにも拘わらず、今回の案は、国民と患者に負担増を求める方針のみが、明確になったに過ぎない」と論評した。

  この時に、生々しく列挙された「大病院への通院は五割負担、その他は三割負担」という案は「九月からの負担増に脅える国民の神経を逆なでするものである」と、毎日新聞は表現した。すべての医療改革評論家の思考は行き詰まり、無数の論議も「今こそ、真の医療改革を望む」と呻くのみとなった。 その年の暮れのNHKも「医療費は二十七兆円を超え、老人医療費が八兆円を超えた」と発表するだけであった。

  平成九年十二月十九日開催された中央社会保険医療協議会(中医協)は、医療費改定と老健拠出金の負担つけ回しのダブルパンチを警戒する被用者保険者側の抵抗で、議論は空転し続けた。ついには、事務局である厚生省が総会の審議内容を報告するのに止まり、政治決着に委ねられる異例の結末となった。 数年前までは、医療政策を実質的に決定してきた中医協が急速に失墜した。事実上の崩壊で、医療政策を一つの場で決着させることができなくなり、混迷は一層深まった、と言えるであろう。この閉塞感から、中央突破の方策も、マイナス思考しか生まれていない。平成十一年一月に入っても、マスコミは「薬価差が病院の収入になり、薬剤の不必要な多用など、ゆがみを生みだし医療費増大の原因」と表現しているように新たな視点から問題を見ることができない。

「薬価差益を狙って薬浸けにする医者と、薬を欲しがる患者にペナルティーは当然」とか「社会的入院でボロ儲け」とか「老人は病院で死ぬよりも、施設で死ぬ方がこんなに安上がり」というレベルから抜け出ることができない。最近は「不正請求、医者は医療という名を借りて、密室で不正をしている」と、繰り返し報道している。平成九年は「犯罪行為を摘発することこそ、医療改革」と決めつけた報道に溢れた一年でもあった。「医療は消費」とか「医者は悪徳商人・業者である」と放言し目立とうとしている人もいる。

NHKを始めとする「医療改革討論会・スペシャル」も「改革論議は緒についたばかりです」と毎回、結語されたように、時間だけが無駄に費やされて行った。

高名な識者たちの「医療改革議論」の最大欠陥は「医療とは何か」と「どういう状態が理想か」について、彼らが全く理念を持っていないことである。出し惜しみをしているのか? 反対を恐れるのか? 仲間外れを恐れるのか? それとも提言するものを持たないのか?「医療費削減が目的か、あるいは保険財政黒字が目的か」すら明確でない。「その場に居合わせたメディアが非難しなければ良い」程度の議論を延々と続けている。ではつまり、最良な医療・福祉形態を提示できない議論だから行き詰ってしまう。医療改革論議が進展しない他の理由は医療現場を信用しないからだ。 この信用するということは、「相手にも理が有るのでは?」と思う心がなければならない。マスメディアも言葉遊びから脱却し、国民の視点に立った意見を無限に掲載するべきである。十年間に及ぶ医療改革目的の報道からは何も生まれなかったと知るべきである。全ての会議も「推薦母体の確執」が妥協の余地が無いほどに表面化している。既成の組織では真の「医療改革案」は生まれない事が明確になった。

 行く手の巨大な滝の轟々とした水音が聞こえ始めたのに、小船の中では、乗員が地下の部屋で互いを罵り合っている。このままでは、なすすべも無く、確実に滝に落ちるのである。こうした議論も最近は妙に 「慣れた口調」になってしまっている。平成十年から十一年にかけてはそうした議論さえ全く影を潜めた。

  医療は国民が健康に生きるためには  必要な分野である。性悪説に立つ事に固執し悪徳業種として、規制しようとしたり、消費業界として突き放すよりも、巨額な税金をつぎ込み、育てた医療担当者として、考えるべきである。 国民は、医療担当者に「疾患とか健康維持についての仕事」を、委託したのである。ほかに当てにする職業はないとすれば、育てる以外にない。国民は「医療とは何か?」と「医療政策とは何か?」を考える初めての機会である。

しかし同時に最後の機会かも知れない。

 国民は、窓口の患者負担だけでなく、医療担当者の育成のために莫大な税金を注ぎ込み、さらに毎年、国民一人当たり二十一万円医療費を負担し続けているのである。またこの金は医療機関だけでなく、事務方としての行政・保険者、製薬会社などの医療関連業種など無数の業種に分配されている。製薬メーカーが使用する金(職員の給与、PR、研究費、スポーツ・芸能のスポンサーとしての金、果ては賄賂に至るまで、すべての金)は、全て医療費から出ていることを自覚するべきである。医薬品の宣伝を通してスポンサーを獲得しているマスコミでさえ例外ではない。

  冒頭に述べたように「国民は、納めて来た保険料と税金により、基本的な、医療を受ける権利がある」ことが確認されるべきである。この単純明快な事を、国家が遂行するには、どうするかを議論するだけである。患者主体の医療というからおかしくなる。国民の医療体制というべきである。つまり、現在の患者だけでなく、将来の疾患に備えるための保険料である。保険者とするからおかしいので、国家とすれば鮮明になる。

我々は、我々を育ててくれた先輩を見捨てはならない。付加給付、健康診査、保養所などを全て廃止しても、最優先すべき事項である。また、国民は自分が出した保険料の行方を正確に見守るべきである。使用方法についても、国民自身が決定する権利があるのである。しかし、現在では、医療現場は信用されず、知恵も求められていないし、何よりも、国民すら議論の場に呼ばれていないのである。国民が行政をどんなに信頼し頼りにしているかを医療現場にいる私は実感している。行政は自信を持つべきである。

私が最終的に提言する「医療費六兆円削減計画」の目的は、「病人と老人にとって天国である医療福祉形態」の確立である。削減した「六兆円をこのために使用する」約束がされなければならない。

 昨今に見られる「特殊な部分に対する攻撃報道」で改革が遠のくばかりであるように、医療改革を金銭の問題にしてはならない。医療機関は精神的な報酬で満足する部分が大きいことを知るべきである。金銭で済むものなら先に医療機関が我慢すればよい。

今こそ、医療機関が国民に直接呼びかける時である。最初に、医師が「究極の安上がり医療」を展開しよう。精神的に不幸になるより、貧乏しても、医療ができるほうが、医師にとって、どんなに幸せか!

この国民の権利を「整理する時期」になっている。つまり、権利としての基本的な診療範囲を決める事である。その診療部分については、最低限の患者負担にする。そして、次の段階(検査・薬剤・入院・手術など)においてはじめて患者に選択権を持たせて、自費払いとの混合医療とする。

医療供給態勢の簡素化を図るために、出来高制度を廃止し診療報酬制度を単純化する。基本的な検査を含める制度の構築と患者負担についても単純化する。

保険料、そしてその管理を国民が委託している保険者の機能について、根本的な議論をすべきである。延々と徴収された保険料についての権利が、最大の問題点であろう。

医薬分業について正確な知識を持つべきである。

医学と医療の分離国公立大学病院に保険診療させないこと。

医療機関の努力医療機関が、率先して医療費を減らす努力をする。

古い伝統のある病院は慈善病院として、寄付金による経営を目指すべきである。

医療行政の一本化は不可欠である。