はじめに

年金、医療などの社会保障制度において、「財政危機」という報道があれば、数日後には、「給付の低下と負担の増加」案が報じられる。このような迅速な対応の反面、数年前まで、あんなに盛んであつた社会保障制度改革論議はまったく姿を消している。民医療費の発表も淡々とした報道がなされるだけである。

世界に類をみない皆保険制度は一九五〇年よりが実施された。これにより、国民は健康が損われた時、自らが納得希望する、様々なレベルの医療を、さほど大きくない負担で受けることができた。  国家が実施するこの医療保険制度を支えるために、国民は、五十年間にわたって、保険料を納め続けてきたとも言える。その時に国民が「保険料を収めていれば、将来病気になった時に給付を受けることが出来る」と考えていたからである。しかし、それは妄想に近い片思いであった。昭和五十年頃までは、国民も若く、かつ医療の範囲も狭く、かつその単価も安価であつたので、保険財政は大幅な黒字になった。現在の日本の繁栄を築いたのは、保険料を納め続けてきたこれら先輩たちにほかならない。しかるに、彼らが高齢となり、後輩に、「少し、世話になろうか」と考えた瞬間厳しく拒絶されることになった。「七〇歳以上は医療というより介護と言われるべきだ」とか「新たな保険料を収めなければ介護制度から除外される」と言われているのである。黙々と収め続けた保険料は何処に消えたのであろうか?

二十五年間の開業医としての経験から、流布している「医療改革論議」からは何ひとつ生まれないであろうと結論した。その原因は「議論の視点が不明朗」であると、「正確な情報を持たないでの発想発言」と「現場を知らない者による議論」に尽きる。なによりも、医療改革は「国民の視点から」のみされるべきである。そして、その原点は「国家は、国民に基本的な医療を提供する義務がある事」そして「医療機関は国民から委託された医療を供給する義務がある事」である。

国民と医療機関はそうした義務と権利によって結ばれている。厚生省を始めとする行政と保険料管理を委託されている保険者は「事務方」として、製薬メーカー・医療機器企業をはじめとするすべての医療関連業種は「支える部門」として、この「義務と権利」が円滑に実施されるためだけに存在するのである。膠着した現状打破のためには、全く新しい考え方が必要である。この著作で「国民の視点」で「医療現場」から「公平な情報分析」より「医療改革」を述べた。

  「国民のためであれば、変革をしてはならない規則などは存在しない」という古人の言葉がある。私は国民の視点でのみ発言するが、強い風当たりも考慮して、我が師が、遙か二千年も前に述べた、言葉を掲げておく。

『公益のために忠言を呈する人々に耳を貸しなさい。わたしたちは協力するために生まれついたのである。たとえば、両足、両手、両眼瞼、上下の歯列と同じである。それゆえにお互いに邪魔し合うのは自然に反することである。』 マルクス・アウレーリウス自省録神谷美恵子訳

論文を纏めて一年間、静観したが、何らの議論も起こらず、持論に確信を持ったため公開した。