八 国民の相互扶助の精神を摘み取る

 医療現場から言えば、寝たきり老人と介護に疲れ果てた家族が真に求めているものは「入浴サービス、デーケア・サービス、ショート・ステイ」などのリフレッシュ事業である。オムツなどの現物支給とか、環境整備のための支援などは小さな問題である。糞便の処理くらいでは、疲れ果てはしないのである。痴呆老人が夜は寝てくれて、徘徊しないで、暴言を発しないでくれる事を切望している。そして世話をする家族が一日に数時間、自分の自由時間を持つことができ、月に十日間くらいショート・ステイしてくれたらと心から思っている。 

国民が制度をなんら理解できないままに、認定の申請をしているのは、「要介護認定」を取得しなければ、四月からは「入浴サービス、デーケア・サービス、ショート・ステイ」を受けることができないと言われたからである。

現在入所中の老人たちが、ほとんど自立であると同じに、在宅でこうしたサービスを受けている大多数は自立か、要支援である。低い認定を受けて、サービスを打ち切られた人々は、次回の申請では、上手に振舞うであろう。簡単な芝居で…

そうすれば、行政も「聞き取り調査では、家族は重症に言うであろう。嘘をつくだろう」と決め付けるであろう。認定委員会では「かかりつけ医師は家族に頼まれて嘘をついている」と言われるであろう。委員会も行政も国民も相手の腹の探り合いを続けるであろう。つまり、疑心暗鬼の世界に国民を引きずり込んでいる。

 バブル経済が弾けて、「物質より心の時代」に帰り始め、戦争や天災で不幸に陥っている途上国支援、そして不幸な阪神大震災を経験して行くうちに、見知らぬ人々を無償で支援するという機運が生まれた。痴呆などの父母を抱えて悩んでいるものが自分ひとりで無いことを知り始めていた。皆で助け合って老人を支えようと発想し始めていた。

遅れ馳せながら、わが国にも「奉仕によって、世の中に役に立ちたい」という機運が育ってきた。ボランティア、NGOなど言葉も定着し始めた。介護保険制度はそうした「助け合う精神」も駄目にしようとしているのである。介護保険の一番罪深い部分は「国民に中に育てるべき相互扶助の精神を摘み取った」事だと思う。

 家族が、一日中している病人お年寄りの世話を、隣の家ですれば金になって市町村から金を貰える。あの程度のことで金が払われるのなら、自分の親を看病・介護する場合にも賃金を貰っても良いのではないか」という発想が生まれるのも仕方の無いことである。どんなに手抜きとなっても、分らない。

 最近、老人保健施設のサービスが急速に悪化していると老人の家族から聞かされる。人件費の膨張などで経営が悪化していると聞く。ボランティアを求めているそうであるが、職員と同じ内容を要求しているそうで、ムシが良いと言わざるを得ない。

 営利企業に渡したのは老人だけでなく、国民全体であることに留意すべきである。

このままでは、父であり母である老人、現在の日本を敗戦のどん底から引き上げてくれた老人たちを愛情で報いるのではなく、放り棄てようとしているのである。

 つまり、制度は「国民あるいは人間同士で労わり合い助け合う」という社会保障の根本に金をばら撒いて、破壊したのである。

国民が介護で疲れ果て、パニックになり、介護保険制度創設を黙認したのも、「肉親の痴呆化」である。