二 国民の同意無き介護保険

「介護保険制度見直し政府案・国費一兆円理念無き投入」と、現金給付「慰労金」、保険料徴収猶予などを巡って大騒ぎであるが、これらは各論の中でもごく些細な部分に過ぎない。

朝日新聞(十一月二日論壇)に斎藤弥生阪大助教授の「介護家族を慰労しない『慰労金』という投稿があった。斉藤氏は、まず、『既に決着している内容』を、この施行直前になって蒸し返すことに怒りを表した後、『介護保険制度見直しで、要介護度4・5で、サービスを一切利用しないで献身的に介護する家族に慰労金を支給する、ことが『介護保険制度の根幹を崩し、介護家族をさらに苦しめかねない問題』をはらんでいる』と述べている。「慰労金の導入は、マイナス効果の方がはるかに大きく、国の責任逃れである。介護サービスが普及すると、家族の役割が失われると心配する人達がいる。どこの国でも家族や友人がお年寄りの心の支えであることに変わりない。お年寄りが求めているのは、何年ものおむつ交換で疲れ果てた家族の顔でなく、毎日語りかけてくれる家族の笑顔なのである。介護の負担が軽減されてこそ、家族の本当の役割が果たせる」と結んでいる。同じ紙面に「介護保険の見直し・家族・社会の分担いかに」として、出河記者が「介護保険はもともと、(高齢者介護を担うことに限界がきている)家族のきずなを守るため、純粋に発想された。九五年から九六年までの非公開の厚生省老人保健福祉審議会においても、『ある程度家族の介護に頼り、現金支給する』という意見も少なくなかった。審議会における意見がまとまらず、法案づくりの段階で、保険で提供するのはサービスだけとなった。要介護高齢者を支えるために国民が議論すべきは『提供できる介護サービスと保険料、税金、利用者の自己負担といった財源の組み合わせ』である。制度導入への反発を恐れて、厚生省は国民への説明と同意を避けた」と述べている。このように、多少なりとも問題点が整理されていて、皮肉な事に、論壇の投稿内容の浅薄さが浮き上がっている。

『この制度は国民にとって必要か、価値あるか』を、どの時期においても思索し続けることが、税金で生活している国立大学教官の義務ではないだろうか。

 一時期、毎日のようにマスコミに登場していた医療改革論議は既に放棄され、息さえしていない。過去の論者と内容を検討すると、「利害を異にする組織の代表がいつも相手を攻撃し合っているだけ」である。議論で退くことは、代表する組織の弱体化を招き、代表者自身の立場を危うくさせる。

審議会の名称が違うだけで、同じ顔ぶれで対峙していることも奇妙だ。そして、その裏参謀には、医療そして福祉の専門家と自称する人々がいる。驚くべきは『同じ時期に、利害が異なるエージェントを引き受けている』事である。

行政側、(俗に言う)支払い側、(俗に言う)診療側という利害が拮抗する側の審議会、委員会委員を、同時に、なんの疑問も持たずに受けている事である。

学者たちは、双方の裏事情を勘案した「落しどころ」を探る役目に陥っている。だから、医療改革論議は『現場を知らないために、マスコミ記事を整理するだけに終わった』のである。

 国民の視点から議論することが皆無である。この国民の視点に立たないことを、今度は、介護保険制度でしているのである。

 介護保険は医療改革を失敗したために出現した。

健康保険組合が赤字になって、「老人医療拠出金がなければ黒字になるのに」という意見と「景気の悪化により、巨額な市場(厚生省によると、平成一二年度だけで、介護保険の費用は四兆三千億円に達し、認定から漏れ自立とされた人々に対する介護環境等に使う費用などを入れると、総額十兆円の金を国民は払うと計算されている。)で、民間にも金儲けをさせろ」という意見が骨格をなしている。

これに、駆け込みで老健施設を併設した医療法人の意見が加わったのである。こうした中小病院は預金金利の低下、建設費・人件費の増大だけでなく、併設施設とのキャッチ・ボールが法律で禁止されたため、さらに経営が行き詰まって来ている。こうした中小病院倒産防止という使命を帯びた医療法人代表者が診療側の意見となっている。つまり、無理を承知で押し通した政策であり、審議会でも当初から、「急造の介護保険制度は、致命的な欠陥を含む試作品に過ぎないので、改善を重ねて施行する」としていたのである。その中には、当然「制度廃止」も視野に入っていた。

 国民は「介護保険とは何かという最初の議論」の場にすら呼ばれなかったことを今思い起こし、改めて「公的介護とは何か」の議論をすべきである。「介護」とは何か?日本では「お年寄りの世話をする」とか「看護を手伝う」などの言葉があったが、辞書にない介護という言葉を使うことはなかった。

この二つの単語でできた「介護保険の理念」とは何であろうか。

「介護」とは何か、国家は国民に説明し同意を求めるべきだ。