十 在宅介護サービス提供は甘くない

 厚生省の試算では、在宅介護サービス(訪問介助・訪問看護など)の対象者を二百万人(六十五歳以上人口の十二・四%)としており、介護保険からの給付総額三兆八千億円のうちの一兆四千億円で済むとしている。

年間十兆円の介護市場と言われるとすれば、国民の自己負担は六兆二千億円になる。この介護市場に殺到する全ての業種の記事が毎日のように載る。「住宅各社がヘルパー派遣など介護支援事業に進出」という記事もある。営業内容が不明にも拘わらず「介護事業をする」と発表するだけで会社の株は即座に高騰する。介護産業とか介護労働者なる新珍語も生まれ、労働組織ゼンセン同盟のトップ企業は、ダイエーを抜いた介護関連企業である。三十数万人にしたいと、意気込んでいる。

 ヘルパーを抱える事が巨額な利益を生むとしたら、明らかに、制度そのものが欠陥製品である。計画は直ちに凍結されるべきである。

これは行政審議会が介護または介助の行為を時間という単位で計算し、その時間を金銭に換算したためである。しかも、介護サービス費用を『患者の立場に立って介護を支える為に必要な金額(内容の質)』ではなく『営利企業が人員を派遣した場合、利潤が発生する金額(量)』によって計算したためである。

厚生省案では三十分以上一時間未満(原則五十分のサービス提供)で、「家事援助中心」が千五百三十円、「身体介護中心」が四千二十円、「折衷型」が二千七百八十である。つまり、保険金給付金額を「ではなく、によって設定したのである。

 また、国民も「ヘルパーになれば、高収入が望める」と勘違いしている。朝から、一箇所で働き、かつ全額を入手できると錯覚しているからである。

 各市町村が行なってきた在宅看護体制は初期の頃は長い低迷が続いた。採算を追求しなかったからこそ、育ってきたのである。利潤を追求する民間事業所が成功することは難しい。

その最初の理由は、雇用すべきヘルパーなどスタッフの数は机上の計算の数倍が必要であることである。

スタッフの移動に必要な時間が計算されていない。私の現場は、限られた地域内と言えるが、それでも、移動に必要な時間は一箇所に最低三十分である。

区域縄張り制ではないから、広域に渡る事となり、移動に一・二時間を要することは稀で無い。一チームが担当できる件数は驚くほど少ないであろう。多分八時間で四箇所が精々であろう。つまり、折衷型の二千七百八十円なら、一日一万円である。ヘルパーの時給は八百円以下となるであろう。この移動の費用を勘案したものが「所要時間」であり、「時間外割増」であろう。しかし、単価を幾ら高く設定しても、支払い限度額が設定されているのである。。要介護5でも(一カ月に二十三回の訪問介護・看護・リハがされるが)支払限度額は三十六万円強であるから、一日一万円程度である。つまり、ヘルパーに支払われる金額は驚くほど低くなる。その結果、スタッフの量の確保が極めて難しくなるであろう。

すでに、病院ではパート職員の比率が多くなっているが、施設でも、パートで運営しようとしている。しかし、奉仕の精神ではなく、賃金で縛った「ぎりぎりの人員」であるから、数人が欠けると、即座に「介護サービス低下」になる。「今日は職員が休んだので、介護サービスに行けません」は通用しない。好きな時にサービスすれば良い性質と違い、月額丸め制になるであろうから、三十日間完成させたケースだけ請求できるはずである。架空請求も犯罪であるが、放置される要介護者が大問題だ。

 営利を目的とした会社が「ペーパー試験で急造された」ホームヘルパーを、送り込んで来るわけだが、彼らは、痴呆老人が手で掻き回した便を処理したことがあるのだろうか。

『数十分間単位での老人達の排便処理、食事・入浴など介助労働と過酷な移動』を毎日毎日、続けて行くことに耐えられるパートが何人いるだろうか。つまり、今は「ホームヘルパーは良い収入になる」と幻想を抱いている有資格者も、二週間もすれば、ギブアップすることは目に見えている。こうした悪循環はスピード早く回転するものだ。

次に、スタッフの質の保証は誰がするのか。

我々国民からみれば、数合わせのために急造された介護労働者が信頼に足るものであるか否かが、最大の問題点である。

痴呆老人で家族の人間関係が崩壊していく大きな事件は「物が無くなった」と騒ぐ痴呆老人の発言である。

ビルの貸し事務所から派遣されて「入れ替わり立ち代り」訪れる人々を老人や家族は信用できるだろうか。そもそも、わが国の家庭には他人を受け入れる習慣は無い。特に密室化した現代生活では見知らぬ人々に対する警戒はどんなに強くても当然である。医師が診察以外、他の訪問看護サービスを拒否する家庭を、医療現場ではよく経験する。その大きな理由に「見知らぬ他人にズカズカと入られたくない」事がある。判断力を失った父母がよく分らない人と密室にいることを容認できない。我々は貴重品をしまい、プライベートも隠し、タンスを始めとして家中に鍵を掛けなければならなくなる。

「精神の弱った人達に、民間療法・宗教から物品販売までの勧誘を強要するケース」は無数にある。

次に訪問介護スタッフに何ができるのか。

朝夕、各平均一時間訪問したとしても、挨拶と、問診で十五分とすれば、残りの時間で何ができるか?その時間に、排便する人は何人いるのか?ご飯を食べる時間の人は何人いるのか?

 見知らぬ人の訪問に合わせて、家族は、その時間、逆に家に居なければならない。女性をオムツ交換から解放し、働きに出る事が可能にするようにと制度は作られた筈なのに、赤の他人による巡回サービスがあることが家族を縛ることになる。

シメなどという生易しいものではなく、糞便)処理」から解放されて、嫁が笑顔を取り戻す」などは現実を知らない学者の絵空事なのである。

疲れ果てている原因は、看病する老人の人間性の崩壊に起因することが多い。一日一時間を二回、肉体的労力の差し入れでは解決しない。月に二週間老人と家族双方が満足する施設に入ってくれる事なのである。

ハシが使えるかとか、寝返りをうてるか、ボタンをはめられるかなど、の質問は、大きく的を外れているのである。それらは介助動作に過ぎない。介護保険制度で保険料を払う見返りの権利は「痴呆老人など抱えた環境」に援助を受ける事である。

私が、介助保険とか呼ぶのはその為である。

そして、介護という言葉に、国民が共通の理念を持っていない現在とすれば、介護保険ではなく、「一部介助保険」あるいは「(意味不明な)カイゴ保険」とするべきである。